「風景が心を耕す」―岩手文化へ、高まる共感

平泉世界遺産の日シンポジウム「平泉―文化としての環境」
基調講演「風景が心を耕す」―岩手文化へ、高まる共感

2015年6月27日
中尊寺本堂

私の風景を発見、そして共感
安達太良山を過ぎ、仙台平野にさしかかると水田景観のかなたから北上山地が車窓に迫る。安達太良の頂に「ほんとうの空」を見つけた光太郎と妻智恵子。そして車窓いっぱいに広がり、けいこ笛田はことごとく<青みけり>(一茶)そのままの景のかなたに、巨熊に倒された熊獲り名人、淵沢小十郎を悼む熊たちが棲む「なめとこ山の熊」(宮沢賢治)の山岳景観が展開する。
宮澤賢治の童話「なめとこ山の熊」の一部です。

熊捕り名人、淵沢小十郎は熊の月の輪をめがけてズドンとやるたびにこう言うのだった。「熊。おれはてまえを憎くて殺したのではねえんだ。おれも商売ならおめえも射たなきゃならねえ。
てめえも熊にうまれたが因果なら、おれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれんなよ」
冬のある日、小十郎は大きな熊と対決、頭に一撃をくらう、意識が遠のく小十郎は、遠くでこういう言葉を聞いた。「おお小十郎、おまえを殺すつもりはなかった。」
それから三日目の晩、凍てつき、山頂に伏せた小十郎を囲んで、黒いものがたくさん輪になって集まって、じっと雪に伏したまま動かなかった。

なめとこ山の熊たちは、老いた母と貧しい一家を養うために、熊を撃つが、決して熊を憎んでなく、雪か、花か、見まごう早春の景に見とれる月夜の母子熊の会話に、胸がいっぱいになって身を引く小十郎が大好きだったのだ。
赤黒いごりごりしたおやじで、胸は小さな臼くらいあった。剛毅な小十郎ではあったが、その心眼は熊の体から後光(仏、菩薩の体から発するという光輝)がさすのを見ることができた。

光太郎や賢治の心情を私が思いやるとき、車窓に映える自然景観は、光太郎や賢治の心を読みこんでみる主観交じりの「私の風景」に変化する。
そして「私の風景」はかけがえのないその人の心のよりどころ、精神形成の空間になりうるのです。「なめとこ山の熊」が編纂されている岩波文庫「童話集 風の又三郎」ほか18編」
は1951年の第1刷からすでに90刷になろうとしています。
「なめとこ山の熊」のストーリーに共感し、どれほど多くの人が自然と人の営みに深く思いをいたすことのできたことでしょう。
淵沢小十郎はまごうことのない東北人、北上山地の人間像です。自然や野生の動物たちと交流し合い、他界や土地の神々とも交歓し合うことが出来る「遠野物語」の主人公なのです。「なめとこ山の熊」の風景に私たちがひそかに好感を寄せるのは、そこに日本文化の基層を流れるエートス(精神構造)があり、ゆえに現代の私たちの心を共感で繋いでくれるからではないでしょうか。

そのような特長をもつ地域を社会学では(場所性)という表現をします。トポスが重視されるのはトポスが人間存在を成り立たせる基体として考えられているからです。トポスは風景に表現され,
「精神形成の空間」だからです。ポスターの文に英国の作家ロレンス・ダレルの言葉「人間は遺伝子の表現というより、風景の表現である」を記した理由です。

なぜ「風景」を論じるのか
私は1961年早稲田大学法学部から毎日新聞社東京本社の東京本社へ入社、編集局社会部記者、デスク、科学部部長、論説委員を務め、1998年に早大大学院アジア太平洋研究科の教授に招かれ「環境と持続可能な発展論」「マスメディア論」とゼミナールを10年間担当しました。
2008年に定年退職後、文化としての環境日本学の創成と実践を旗印に、「早稲田環境塾」を創設。早稲田大学を拠点にNGOと2つのフィールド(山形、北海道)それに毎日新聞社とを結び活動してきました。「環境日本学」の背景には私が世界と日本でジャーナリスト、学徒として半世紀の間に対した無数の景観と私の風景が連なっています。

農業基本法が1961年に施行され、翌62年に第一次全国総合開発計画が閣議で了承されました。産業構造を改革し、工業化と都市化を基軸に日本経済が高度成長期に入ろうとしていた61年に毎日新聞の記者になった。
既に産業公害が激発しており、1961年には水俣で胎児性水俣病が発見され、政府を揺るがす社会問題になっていった。三重県四日市コンビナートでは操業開始4年後の1960年に1000人を超す喘息など、呼吸器系公害病患者が発生、四日市第一コンビナートに隣り合う塩浜小学校の生徒達は、「公害に負けない強い体をつくるため」に、工場排煙にかすむ通学路をマスクをつけて登校し、授業に先立ち毎朝乾布摩擦に努めていた。
全国いたるところで海は埋め立てられ工場用地とされ、山岳は観光道路に、森林は多目的林道で切り裂かれ、私の心身を育ててくれた日本列島の自然と風景は瞬く間に無残な破壊を蒙ることに。たまりかねて、環境庁自然保護局の大井道夫参事官を中心に霞が関の若手官僚たちが参加して「風景研究会」が結成され、虎の門の文部省教育会館を拠点に風景を守る活動を開始した。環境庁を担当していた私も加わり、風景を守るキャンペーン報道を意識して行いました。
1975年4月8日から7月22日にかけて、毎日新聞に「私たちの風景」を連載した。書き手に井上靖、東山魁夷、梅原猛、岡部伊都子、中尾佐助。同年毎日新聞から出版された同名の書は帯に「環境破壊は、急激に私たちの美しい風土をむしばみつつある。もう一度この国を、私たちの風景を見直そう、ひたむきな祈りをこめて」と。

どんな場合でも、風景との巡り合いは、ただ一度のことと思わねばならぬ。自然は生きていて、常に変化していくからである。また、それを見る私達自身も、日々、移り変わっていく。生成と衰滅の輪を描き変転してゆく宿命において、自然も私達も同じ根に繋がっている。
花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに何の感動もおこらないであろう。花は散ることによって生命の輝きを示すものである。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命を慈し(いつく)み、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違いない。それならば花に限らず名も知らぬ路傍の1本の草でも同じことではないだろうか。」(東山魁夷「一枚の葉」)

その前年1974年に有吉佐和子が朝日新聞に「複合汚染」を連載。自然保護憲章が国民会議で採択(平成天皇となる皇太子が宣誓)そういう時代状況でした。

ダライ・ラマインタビュー
大学に転じて7年たった2005年2月末のことです。毎日新聞社の依頼でチベット仏教の「活き仏ダライラマ」14世法王とのインタビューを試みました。
ニューデリーから列車で10時間、カシミールに近い西北インドの街パタンコットへ。万年雪のヒマラヤ山脈ダウラダル山地へ向け、信号機が1つもない道を3時間飛ばすと、標高5000㍍級の山脈が壁となって覆いかぶさってくる。車の登攀力が限界に達した谷間の急斜面に、ダラムサラの町がへばりついている。

1950年、中国に追われチベット・ラサのポタラ宮殿を脱出したチベット仏教の「活き仏」であり、亡命チベット政府の首班(2016年首班を辞任)でもあるダライラマ14世法王の活動拠点である。
インタビューに先だって、亡命政府からダラムサラの要所を廻り、チベット仏教の思想と実践を学ぶよう求められていました。私は5日間ダラムサラに滞在し、20年ぶりという大雪で雪崩が連発するこの地の風景に息詰まる思いで接しました。
毎朝真っ暗闇の奥から怒涛が押し寄せるかのように、地響きを伴った音響がホテルの頑丈な石壁を越して伝わってきた。
音源を確かめようと崖っぷちの凍てついた雪道をそろそろとたどると、岩山の頂に在るダライラマ宮殿の寺院の境内に。
柱だけの吹抜けの大広間で上半身裸の300人近い僧侶が星がまたたくヒマラヤの雪の稜線に向かい、腹の底から発するかのごとき大声量で読経に熱中していた。ダライラマは一人同時刻に、宮殿で沈思沈考の時を過ごすとのこと。
僧侶たちの大群と、ダライラマ師によって共有されている、夜明けのヒマラヤの荘厳極まりない風景に私は深い感動を覚えた。

危機の時代と風景論
今日の私の講演テーマ「風景が心を耕す」―岩手文化へ高まる共感、の原点はダラムサラでのこの体験に根差している。その社会が、人心がどこへ向かおうとしているのか。航図無き漂流に陥って久しい日本と日本人の明日を、かけがえのない「原風景」、自己(identity)確認から考えるキャンペーンを、私は毎日信聞社とJR東日本に提案しました。
2017年の今に続く毎日新聞朝刊連載「新日本の風景」の第1回目を、2007年8月4日朝刊に、秋田県羽後町に伝わる西馬内の盆踊りから始めました。
約700年の間、女たちが踊りついで来た西馬音内盆踊りの光景に、私はかけがえのない「私の風景」との出会いを実感しました。

お囃子のがんげ(甚句)は<お盆恋しや、かがり火恋し、まして踊り子なお恋し>と歌いだされる。現世の悲運を悼み、来世の幸福を願う「願生化生の踊り」が「がんけ」の語源だという。
私達はそこに日本の、北東北の風土と抜き差しならず結びついた「私の風景」を見出し、共感にひき込まれていく自分に気付くのです。西馬音内盆踊りは、国の重要無形民俗文化財のうち、盆踊りの部第1に選ばれました。日本人の原風景<魂の不滅の故郷>です。

原風景とは何か。
人の心を育て、鍛え、挫折したときにそこへ戻って立ち直ることが出来る風土性豊かな自己形成の場です。文芸評論家奥野健男は、島崎藤村の信州馬篭の宿、太宰治の津軽、井上靖の伊豆湯ヶ島、大江健三郎の愛媛の山中などを例に挙げて記しています。
「これらの作家たちは、鮮烈で奥深い“原風景”を持っている。自己形成とからみあい、血肉化した、深層意識ともいうべき風景なのだ。彼らは絶えずそこにたち還り、そこを原点として作品をかいている」(「文学における原風景」)

春の夕暮れ、一人弘前城を訪れ、岩木山を眺望した弘前高等学校文科生・太宰治は、その時の印象を作品に記しました。
―重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。なにかある筈である。日本全国、どこを探しても見つからぬ特異の見事な伝統があるのである。私はそれを、確かに予感してゐるのである。それがなんであるか、形にあらはして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、悔しくてたまらない。この、もどかしさ。(「津軽」1944年)
石坂洋二郎、佐藤春雄、葛西善三、太宰治、長谷部日出雄、福士幸次郎ら個性豊かな作家、詩人をこれほど密度濃く輩出した地域はめずらしいといえます。
出色は津軽方言詩人たちです。一戸謙三、高木恭造、植木曜介らの津軽弁の詩は、風景そのものです。その言葉の意味もさることながら、行間に溢れる、懐かしく暖かい抑揚とリズム感が、津軽三味線の奏でるじょんがら節を思わせて心を揺さぶります。

弘前(シロサギ)  一戸謙三

何処(ド)サ行(エ)ても
おら達(ダツ)ねだけァ
弘前(シロサギ)だけァえンたどこァ何処(ドゴ)ネある!
お岩木山(ユワキサマ)ね守(まも)らエ(え)で、
お城(しろ)の周(まわり)りさ展(フロダ)がる此のあづましいおらの街(マヅ)…

どこにいっても
俺たちには
弘前のような場所はどこにあるというのだ!
お岩木山に守られて
お城の周囲に広がるこの快適な、心穏やかな俺の街……

これらの作家が読者に共感を持たれ読み継がれているのは、彼らの風景が日本人の原風景として共有されているからではないでしょうか。

94年10月13日、大江健三郎さん(59)が日本人として二人目のノーベル文学賞作家に。
愛媛県松山市に近い内陸部の小さな村《喜多郡大瀬村=現・内子町》に生まれ育ち、作品にも四国の谷間の集落がしばしば登場。東京新聞によれば受賞に沸く地元の人たちは、「古里の森や川などの自然に寄せる熱い思いが大江文学の原点と受け止めている。」
大江さんの手記(翌10月14日の東京新聞朝刊)
僕は四国の森のなかの谷間をモデルにして作りあげた神話と歴史の舞台を、やはり書きなおし続けてきた。小説家は、そのような場所の設定なしに、現実をこえたものを想像し、思索することはできない。そのような自分にとっての特別な場所に、やはり自分で作りあげた人物たちを位置させることで、小説を書くこと、あるいは小説家として生きることは始まるのである。
フランス文学を学び、最も現代的な日本の知性と評されている大江もまた、奥野の指摘する「原風景」を作品の原点としているのです。

自分は何者か、自己確認(アイデンティティ)の原点
3・11 露呈した東北の原風景・毛越寺で
3.11東日本大震災後、毎日新聞とJR東日本の意向で〈新日本の風景〉を被災地で書くことに。
潰滅状態の宮古市の海岸付近から重茂(おもえ)半島を山へ向かい、道が稜線に到り、橋を渡る手前で息をのむ光景に遭遇した。進行方向の海側の沢筋は、累々たる家屋の残がいで埋まり、同じ場所から道の反対側に、浄土ヶ浜が何事もなかったように静まり返っている。
300年前の昔、此の地を発見した霊鏡和尚が「さながら極楽浄土のようだ」とたたえた浜です。
地獄と天国を、同一個所で同時に視界に収める、この光景をどう受けとめたらよいのか。今日、パネリストとしてここにお見えになっている藤里明久執事長を毛越寺に訪ねました。
毛越寺は嘉祥3年(西暦850年)慈覚大師円仁によって開山されました。その19年後、三陸地方に貞観11年の大地震が起き、さらに約1000年を経て今回の大震災に遭いました。

―ある漁師さんが、私は家族を失ったけれども、やっぱり海に出たいとおっしゃっていました。重みのある言葉だと思います。我々は自然から逃れることも、自然を拒否することもできない。
そういう所に生きているのが私らだということを震災に遭い、身体全体で受け止めたと思っています。浄土というのは理想ではなくて、この現実の中で苦しみながら、もがきながら、
しかし希望を失わずに生きることだと私は思っているんです。
「我々は自然から逃れることも、自然を拒否することもできない。そういう所に生きているのが私らだ」という被災漁民の指摘と、東京都民である私たちも同然の状況に。その時、岩手の原風景を持たない東京にどのような風景が展開しているのでしょうか。
私自身が住む東京にしても直下型とトラフ型の大地震が30年以内に70%の確立で起きると地震学者は予測している。

翌2012年7月7日夜のことです。ライトアップされた浄土ヶ浜の岩塊碑を背景に平泉の浄土思想を今に伝える延年舞「老女」が厳かに舞われた。演者は藤里執事長だった。
浄土ヶ浜で舞う意義を問われ、藤里執事長は次のように答えた。
「沿岸を含め東北はかって藤原氏が統治し、仏国土を作ろうとした地域。平泉にとってもかけがえのない地域だ。浄土と言われる浄土ヶ浜で鎮魂の行事を行いたいと熱心なお話があった。死者の霊を舞で慰めたい。」
―「老女」が表現するものとは。」
「災いが少なく、疫病、戦乱のない時代を乗り越えたからこそ老婆は長命した。それを感謝して舞を舞う。」
「舞を通じて神仏の力を引出し、そのご加護により多くの方を救っていただく。舞や演者に人を救う力があるわけではない。真摯に舞う心持ちが通じる。」
藤原執事長による「延年舞」の風景を、2012年7月8日、岩手日日新聞は「真摯な心」に救う力。岩手日報は「鎮魂の七夕 幽玄延年舞」との見出しで報じた。
「魂の不滅のふる里」の風景への共感が伝えられた。

アニミズムとマナイズム
2011年7月、塩釜市の高台に鎮座する塩釜神社に大勢の氏子が集い、恒例の祭典に変えて復興祈願祭が行われました。主祭神は「おらが塩釜さん」と親しみ呼ばれる塩の神様「鹽土(しおつち)老(お)翁(じの)神」です。野口次郎禰宜が語ります。
「イメージは白いあごひげを蓄えていて、知恵の深い、物をよく知る、民を守ってくれる老翁です」。
暑い盛りの7月4日から6日にかけ、市の中心部にある塩釜神社の末社・御釜神社で古来の製塩法を伝える「藻塩焼神事」がとりおこなわれました。
―「塩釜さん、以前の通りだね、ほっとした」とか、「気持ちが前に戻れた」とか、そういう言葉を漏らす参拝の方々と多く接しています。
神社の社殿は普通東か南向きに建てられます。しかし塩釜神社は西向きに、海に背を向けています」地元の人は、海から上がったシオツチオジノカミが、そのまま「海の苦労を背負って立ってくれています」という言い方をします。この地方では大津波のたびに、塩の神様が乱れた世の中を収斂し、鎮めることの繰り返しだったと思います。」(野口禰宜)

西向きに立つ、シオツチオジノカミ。それを見守り、祭る人々の風景。それこそが大地震と津波、原発事故メルトダウンの絶望的な状況下で、 私たちの心の奥に蘇ってきたアニミズムとマナイズムが交錯する原風景ではないのか。

文学や芸術に現れた日本人の自然観の際立った特徴は古代人が持っていたアニミズムとマナイズムである。アニミズムとは自然の中に霊魂を見る事であり、どちらかといえば、人間と自然の親密感を表すものである。マナイズムとは自然の中に超自然的な威力を感じる事であり、それは自然に対する人間の畏怖の念をあらわすものである。塩釜神社の歴史がそうであるように、古代日本人はこの両者をもっていたが、時代の経過とともにそれらを失ってきた。特に明治以後、欧米文化が移入されると、それらは迷信として排斥されるようになった。しかしむしろそれは日本人が古来生きるための大変な知恵ではなかったか、そういう考え方が、人間の生活を快適におくらせてくれたんじゃないか。そういうプラスの面も考えてもいいじゃないか。(文部省が主催した「文明問題懇談会」での文芸評論家山本健吉の見解です。)

地域に潜在し受け継がれてきた日本文化の根っこが、震災を経て鮮やかに掘り起こされ、人々の心を繋ぎ、共有されているようです。歴史に鍛え抜かれた本物の日本の風景が、今東北・岩手の各地に脈々と息づき、訪れる人々の心をつかんで離しません。
アニミズムとマナイズムを暮らしの作法、暮らしの知恵として理解し、東北の地域社会はなお営まれているのです。

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